いじめと不登校 その2

前回は、いじめが起きる背景、そして、その理由を考察してみたが、もう少し掘り下げていき、そのあとで、私の経験を述べていきたい。

中学生、高校生のスマホの使い途としては色々あるが、1つには、友達とのコミュニケーション・ツールとしてのもの。携帯の通話料金は割高ということもあり、スマホのインターネット回線を用いたアプリケーションであるところの、ラインが主だったソフトとなっている。

一昔前、まだ携帯がなかったころは、学生が友達と連絡を取るときには、家の固定電話や、外の公衆電話を利用するしか手段が無かった。友達の家に電話を掛ければ、友達が必ずしも、最初に電話をとるわけではないので、友達の親や兄弟が電話を取り次ぐこともあり得た。

そのため、親は、自分の子供にかかってくる電話によって、子供の交際相手、その範囲などをある程度把握することができた。

しかし、現代では、中高生が自分専用の携帯端末を所有する時代になって、その親が、自分の子供が、どのような相手と、どのような付き合いをしているかを判断するなり、情報を得る機会が無くなってしまっている。昔であれば、見知らぬ大人や、悪意のある第3者が自分の子供と接触することを遮断すること、親として子供を守る防波堤としての役割を果たせたことを難しくしてしまっている。

その結果、マスメディアで取りざたされるような事件が、子供たちに起こってしまっていることも、また事実である。

話が大分、逸れてしまったが、スマホのラインアプリは言わば、小中高生のコミュニケーション上、必要不可欠な道具となっていることは否めない。

特定の友達同士でつくるグループ・ラインにたとえ、入っていたとしても、仲間外れや、いじめに発展するリスクを常にはらんでいる。

返事が少し遅れただけでも、それが相手に悪意があると思われたり、無視していると勘違いされたりすることで、それまでの友達関係が、仲間外れやいじめに発展することも少なくない。

実際に会って、話をしたりするなかで、友達仲が険悪になるのではなく、電子化された文字によって生じる問題である。

そして、一旦悪化した友達関係は、回復するどころか、悪化の一途を辿るケースが多いことも、よく見られる傾向である。

そして、不幸にも、いじめにまでなってしまった場合、関係改善のために、相手の誤解を解く説明なり話を直接したり、他の同じ仲間うちの友達に仲裁を求めることもできるが、それらの努力も虚しく失敗した場合には、まずは、いじめにあっている本人を守ることが何よりも優先的に行われなければならない。

親であれば、中高生である自分の子供と良好な関係を保つことは、巣立ちの時期を間近に控えている青年期にある子供が相手であることから、簡単ではないことも多々あると思う。

しかし、それが親からの一方的な自分の子供に対するコミュニケーションの努力ではあったとしても、それを怠ってはいけないと思う。

少なくとも、自分の子供が中学生にもなれば、10数年もの長きに亘り、子供に寄り添ってきているわけで、たとえ言葉を交わさなくても、子供の表情に見て取れる、休日と平日の変化や、時折見せる顔の曇りなどは
親ならではの気づきがあるはずである。

実際、私の中学になる息子が不登校になる前には、明らかな前兆が、その顔の表情に見られた。

息子が中1になって、そろそろ、1学期の途中から顔が段々と無表情となっていった。親である私から学校のことを聞かれても、その反応は鈍く、答えは曖昧。進学塾に通って、個別指導を受けてはいたものの、勉強には身が入らず、学校の成績は下がる一方だった。

いじめと不登校

日本でいじめが社会問題になってから久しい。

そこで、もし、自分の子供がいじめにあったら、どのように対処すべきなのかを、自分の経験も含め考察していきたい。

現代において、いじめが深刻な問題となっているのは、ひとつには、大人の社会が影響している側面があるのではと考えている。

一口にいじめと言っても、現代のいじめの内容は、10年前、20年前とは異質なものである。現在80歳の年代の人たちにいじめの問題をすると、いじめをする者がいれば、ぶん殴れば良いとか、やられたことをやり返せばいいとか言うが、その言葉には、現代のいじめの陰湿性を理解していないことが分かる。

いじめが起きる理由について、まずは考えて、そのあとで、それに対する対応策、解決策を取り上げていきたい。

まずは、いじめが起きる理由について。

日本という国は、島国で、単民族国家(厳密的には、北海道のアイヌ民族の人たちがいるので単民族ではないが)、移民をこれまで、米国や他の欧米諸国のように大量に受け入れてこなかったこともあって、自分が属する、学校や会社などの組織において、あまり目立った行動を取ったり、異論を唱えたりすることに抵抗があったり、まわりの空気を読んで、自分の考えや思いを主張することを避け、よほどのことでもない限り、まわりに同調して、波風たてずに生活していくことが、平穏な人生を送っていくための知恵であるかのように考えている国民が多いのではないかと思う。それが良いかどうかは、意見が分かれるところではあるが。

このような日本の国民性、社会性を考えると、少しでも他人と違ったところがあったりすると、それを敏感に察知して、言葉が良くないとは思うが、吊るし上げるような作用が集団の中に働きやすいのでないだろうか。そして、それが、いじめの端緒になるのではと考えている。

また、戦後の教育にもいじめの理由が潜んでいるように思える。

戦後、日本は、米国から受けた爆弾の投下によって、焼け野原になった国土から、欧米諸国に追いつき、追い越せをスローガンに高度経済成長を遂げた。

国を復興するために、行政においては、指揮を執る官僚、役人を育成し、民間の企業においては、効率的な経営の実現のために欧米諸国において練り上げられた技術を模倣し、生産できる知識を持つ人間を採用する必要があった。

これらを実現するためには、法律や経済、理工系の知識を豊富に持っている学卒が必要であった。学校では、知識の詰め込みを行うために、画一的な教育が施された。学校では、校則によって規律が保たれ、学校を卒業して、すぐに役人や会社員になれるような訓練を学校で受けることとなった。

そのような教育は、官僚や、企業の要請であった。

このような環境の中では、人と異なる発想を持ったり、行動をしようとすることが抑制されやすい。それは、学校の先生でも、その生徒たちにもそのような力が働き易い。

息子が通っていた小学校では、息子以外のクラスの全員が、ニンテンドーDSを持っていた。私は親として、子供の将来を考えたときに、息子がゲーム漬けになって、将来性を失うようなことにはしたくなかったので、息子にDSを買い与えることには、強く反対した。

しかし、結局、息子がDSを持っていないことで友達の輪に入りづらくなっているのを可哀想に思った妻が買い与えることとなり、案の定、中学生になる息子は、勉学に勤しむこともなく、暇さえあれば、ゲームに没頭する日々を送っている。

このことから分かるように、学校においては、まわりのクラスメートが所有しているものを持っていないと仲間外れになり易いということ。

中高生のスマートフォン所有率は、スマホの維持費、本体価格の近年の低下により、年々、その増加に拍車がかかっている。これを所有していないことも、子供が中学や高校で仲間外れになったり、いじめの対象になっていることは、よく聞く話である。

クラッシックカーの魅力とは?

クラッシックカーの楽しみ。

クラッシックカーの話に入る前に、まずは、最近の日本社会での、車はどのような傾向にあるのか
考えてみたい。そのあとで、クラッシックカーの持つ魅力を語ってみたい。

日本では、最近、若い世代、20代の人たちは車を所有しようと思わないらしい。

理由はいろいろ考えられる。
車を持つだけの十分な収入が無い。
車を買うお金があれば、ほかのことに使いたい。
などなど。

車を持つ理由は、何が考えられるだろう。
1つには、移動に便利。
都市部では、人口密度が高く、渋滞も多いことから、車で移動する
と時間的、経済的ロスが少なくないので、電車やバスを利用することが多い。

日本で車を買うひとは、新車が好きな人もまだまだ多いし、コスト意識の高い人は、
中古を選ぶこともある。

日本車は、輸入車に比べ、故障が圧倒的に少ない、もしくは、殆ど無いと言っても
良いくらい品質が高い。それに対し、ドイツ車のような車は、動力性能、衝突安全性の高いものが多い一方で、何年かごとにパーツの交換や整備が必要になり、日本車よりもコストが多くかかることが知られている。

車の性能と言っても、様々な尺度がある。
日本では、最近、エコカーブームで、低燃費の車が人気が高い。
ガソリン1リットルあたり30キロを超える距離を走ることが出来る、ハイブリッド車
は、最近、街でもよく見かける。価格はハイブリッド車より高価だが、日産の電気自動車や、
更に高価なトヨタの水素自動車も既に市販化されている。水素は、排気ガスをまったく排出しないので、究極のエコカーと言っても過言ではない。ただ、水素を供給するステーションの数が未だ限られているので、普及には、多くの年数を必要とするだろう。価格も一般庶民が購入できるような価格帯にはない。街中で私が見かけたのは都内で1度だけ。

また、自動車技術の最先端では、自動運転技術が世界各国で競われていて、日本国内では、
自動ブレーキ技術においては、自動ブレーキを市販車に搭載することで先行したスバルのアイサイトが装備されている車は付加価値の高さから、同グレードの他社製品に比べても、車両本体価格は、数十万高く設定されている。

居眠りをしていた運転手のトラックが渋滞の最高尾に追突して、死亡事故が発生することが時々あるが、大型トラックやバスなどに、この自動ブレーキが搭載されることが普及することにより、その搭載が義務化されれば、悲惨な事故が減少することにもなるので、自動ブレーキを先駆けて開発したスバル社の社会的貢献度は大きな賞賛に値するのではないかと思う。

最近の日本車に関する考察はこれくらいにして、本題に進みたい。

クラッシックカーには、前述したような技術、高い燃費性能、安全性、などは無い。
でも、独特の魅力がクラッシックカーにはあると思う。
たとえば、オリジナリティの高いデザイン。

わたしは、昔のアメ車の流線型のデザインが好きだ。
車体は長く、大きくダイナミックな形だ。
大人4人が乗っても、ゆったりと乗れる。

日本の都市部の住宅事情を考えると、コインパーキングやタワーパーキング、
自宅の車庫にもなかなか納まらないサイズではあるが。

それでも、日本でも足回りにハイドロなどを入れてカスタマイズして
乗り回しているのを、街中で時折見かけたりはする。

イタリア車のデザイン、フォルムもまた、非常に魅力的だ。
ピニンファリーナが手がけたフェラーリは秀逸だ。

ドイツ車では、ポルシェのデザインは独特だ。
フロントまわりのヘッドライトの形状は一見してポルシェと分かるものだし、
リヤエンドも車好きな人でなくても、すぐにポルシェと認識出来るものだ。
エンジンサウンドも特殊だ。最近のモデルは、昔のポルシェほど、バタバタとしたサウンドではないが、やはり、エギゾーストサウンドは特殊で、感性に訴えかける音だ。

同じドイツ車のフォルクワーゲンは、昔のようなバタバタとしたサウンドはしなくなり、味気なさを感じるくらいだが、走行安定性は格段にあがっている。66年式のビートルに乗っていたことがあるが、エンジン音はバタバタとしていて、メカニカルなサウンド、また乗って、聞いてみたくなる音だ。最近の車では味わえない音だ。

最近の車、特に最近流行のハイブリッド・カーは静粛性が高く、室内は勿論のこと、走行時の音も無いため歩行者も気づかないくらいのものだが、私個人的には、味気なさを感じる。
確かに、静かなほうが疲労感が少なくなるかも知れないし、好きな音楽を聴くときには静かにこしたことはないだろう。
フェラーリのエギゾースト・サウンドは、甲高く、吠えたけるように聞こえるものだ。

確かに、高い走行性能や、安全性は今の車になくてはならないものだ。また、時代の要請に応えたもので、自動車メーカーに携わる方々の血と汗の結晶であることは確かだが、クラッシックカーは、今の車には無い、味わい深い魅力があるものだ。

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